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清(=大清)に止めの一撃を与えたのは、皮肉にも日本でした。
日露戦争です。 日清戦争は朝鮮半島を巡っての両国の争奪戦でしたから、戦場は当然、朝鮮半島になります。 日露戦争は朝鮮及び満州の支配権を巡っての戦いでしたので、満州(東三省)も戦場になりましたが、その満州の不在地主が清朝を支える満州族だったのです。 その満州と言う故郷であり収入源を荒らされたうえに、実質的に奪い取られたのですから、満州族に政権を支える経済的余力はなくなりました。 もう一つ、ほぼ同時期に清は大チョンボをやらかしています。 科挙の廃止です。(1905年、光緒帝末期) 誰が言い出したのかは存じ上げませんが、科挙が人材登用の用を成していないことと、その廃止とは別の話で、科挙の継続を望む声は、少なくともこの時期、単なる守旧派に堕した宗族階級の間で依然として強かったことは、容易に推測出来ます。 宗族にとってそれ以外の階級と一線を画するうえでも、経済的理由からも、科挙の効用はまだまだ大きかったと思われます。 しかも科挙に変わる人材登用の具体的手段を作らずに科挙を廃止したのですから、王朝側が宗族階級に絶縁状を叩きつけた様なもので、これにより満州族と宗族と言う政権を支える二本の柱が失われたのですから、潰れて当然で、しかも科挙の廃止には日本の躍進=(優れた)教育制度が影響していますから、結果として日本が清朝の末期の水をとった様なものです。 清朝が倒壊したのは1912年、愛想を尽かされた挙句の自壊ですが、これが更なる悲劇を生みます。 (続く)
by 4kokintou
| 2010-04-28 01:25
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