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現代中国考


現代中国に独自の観点から考察を加えます
by 4kokintou

中国を巡る日米英の「帳尻」

近代化に成功した列強は世界を分割し植民地を獲得していきましたが、東アジアで列強争奪の対象となったのは中国でした。

ただ、流石の大英帝国もインドに続いて中国まで呑み込むことは叶わず、そのため中国は列強角逐の場となりましたが、東アジアには他の地域に無い特殊要因がありました。

まず他地域では概ね「縄張り」が確定していて、例えばインドネシアはオランダ、インドシナはフランスと言った様に、互いに手出し無用だったのに対し、中国では必ずしも勢力図が確定しておらず、そのため隙あらば相手の寝首を掻こうとしていたこと、門戸開放政策と称しながら米国が強引に割り込んでいたこと、そして「黄色い列強」大日本帝国が存在していたことです。

ですから中国分割は英米仏露独に日本も参戦する大混戦になったのですが、この原因を作ったのは大英帝国です。


近代列強の先駆者にして「海の覇者」大英帝国、その強さが「桁違い」であることは1840年の阿片戦争勃発から北京条約締結(1860年)の20年間が遺憾なく立証してくれています。

ですが当時4億人の清朝に対し大英帝国の人口は1,000万人に満たなかった筈、つまり「桁違い」と言っても「二桁違い」の様に見えますが、実は「一桁違い」です。

清朝を併呑するには、それまでにあまりに多くの植民地と言う縄張りを獲得し過ぎていましたので、単独では不可能でしたし、そもそも「海の覇者」の桁違いの強さは「一桁」、つまり理屈から言えば勝てる相手ではありません。

そこで「周回遅れの列強」フランスを味方に引き入れた、この国は豊かな農業国ですから人口もそれなりに多いですから「英仏足して1,000万人越え」、これなら「一桁違い」で何とか手が届きます。

ですから「海の覇者」に続いて台頭してきた「陸の王者」ドイツ(プロイセン)が広範囲に亘って中国の領土を分割実効支配しなかったか、対して「見かけ倒しの陸の王者」帝政ロシアが単独で中国領を蚕食し得たのか、桁違いが一桁か二桁かが分岐点だったと言えます。

ですからロシアを主敵とする考え方は間違いではありませんが、それより恐ろしい連中がいました。

日本と米国です。

米国は大英帝国から独立した経緯から、この旧宗主国の「暴力容認型侵略主義」の否定を国是とせざるを得ませんでしたが、侵略そのものは嫌いでありませんから大義名分が立てば兵を動かし植民地を獲得していきました。

勿論、人口の多さは及第点、その潜在的国力を踏まえれば、清朝が最も警戒すべき敵性国家だったのですが、遥か彼方に存在することと、門戸開放政策と言う耳触りの良い言葉に中国は安心していましたし、米国はそれに自縛していました。

それよりも「至近距離に位置」し、「近代列強への飛躍」を果たし、「日清戦争開始時点の人口が4,000万人弱」で、大英帝国を師と仰ぎ「暴力容認型侵略主義」路線を採用した日本を真っ先に警戒すべきでした。

そして阿片戦争に始まり北京条約に終わる20年間で西洋列強が出した答えは、「侵略はこの程度にして、それより平和裏に富を吸い取れば良い」と言うものでしたが、日清戦争における日本の勝利は「富の収奪は平和的手段より侵略」が正しいことを裏付けるものであり、同時に列強による「中国争奪戦」の号砲でもありました。

西洋列強とすれば、日本と言う「黄色い列強」の出現は想定し得るものではなく、しかも侵略一色になれば立ち遅れるのは「見かけだけ平和主義者」米国、そんな米国が親日的である筈もなく、ポーツマス条約締結交渉で米国がロシアの肩を持ったのは当たり前の話です。

日露戦争でロシアが、第一次世界大戦でドイツが争奪戦から脱落、残るは日米英だけとなりましたが、それぞれに問題を抱えながら対中支配へと邁進するのです。

(続く)

by 4kokintou | 2014-02-25 20:50
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