現代中国考

中国人は中国人を崇拝出来るのか ~「北宋以降」再考~

宮崎史観でも、山川左翼欽定教科書でも、この点では見解が一致していますが、唐の滅亡(907年)とその後の五代十国の時代を境に、中国では貴族層が没落して貴族社会が終わりを告げ、代わって士大夫層(=宗族階級=地主層=科挙及第官僚群)が勢力を伸ばしたと一般に解説されていますが、北宋建国(960年)までの半世紀に社会が一変するものか、甚だ疑問に思われます。

中国の中世が貴族社会であり、家柄が幅を利かしたことは事実で、確か唐の昭帝が、とある大貴族に婚姻関係の話を持ち掛けたところ、にべもなく断られましたが、その理由が「家格が違い過ぎる」、そう言われて皇帝側が引き下がらざるを得ないのが、中世の特徴でした。

宮崎市定京都大学名誉教授(故人)の歴史観に従って、後漢の滅亡(220年)から北宋成立(960年)までを中世、別の言い方をすれば「北宋以前」、北宋建国以降を中国史近世(同「北宋以降」)とするならば、その違い唯一つ、「禅譲の否定、具体的には禅譲を口実とする政権簒奪の禁止」、これに尽きます。

要は「一度頭を下げた相手には、子々孫々まで仕えよう」と言う考えですが、では臣下になるのは良いとして「忠節を尽くす」気も「皇帝を崇拝する」気持ちもあるかのかと言えば、やはり怪しいと言わざるを得ません。

中国が「近代化」したと考えるから、事の本質が見えなくなるのであって、未だにその精神構造や文明段階が「前近代=近世」に留まっていると考えれば、より率直に言えば中世すら払拭し切れていないと認識すれば、中国を理解する近道ではないでしょうか。


隋による統一以前の中世中国では、家格が幅を利かす一方、北半分では多数の異民族集団が興亡を繰り返し、南方では皇帝なぞ糞喰らえとばかり短期間で王朝が入れ替わりました。(五胡十六国、或いは魏晋南北朝時代)

これに対し、五代十国時代は、貴族の没落過程である点で五胡十六国と異なりますが、数々の政治集団が覇を唱えた点では違いがありません。

その五大十国時代を経て、北宋が成立するやいきなり「皇帝独裁」を承認し、心から皇帝を崇敬することが出来るのか、結局は建前に過ぎないのであって、「真の主権者」士大夫層にしてみれば、皇帝と言うのは単なる一種の国家安定装置ではないのかと考えざるを得ません。

宮崎教授の「中国史の名君と宰相」(中央文庫)に収められている論文の中に「張溥とその時代」がありますが、この明末の実状を余すところなく活写する名著によると、張溥は南宋を建国した高宗をこき下ろすことで、時の皇帝(崇禎帝)を当てこすっているが、そこに尊敬の念は感じられませんし、張溥率いる復社を初めとする諸団体の存在意義は権力闘争と己の勢力拡大です。

当時の明朝(=大明)は今の日本が引くほどの財政赤字、しかも後の清朝(=大清)との戦費や、最低限必要な水利事業の費用も、士大夫層(正確には「郷紳」)がピンハネしているのですから、何をかいわんやです。

そして有難いことに、張溥は南宋高宗を呼び捨てにしてくれていますから(趙構、或いは単に構)、時代が変われば人物への評価も変わる、それは歴代皇帝でも例外ではないことを教えてくれています。

その点だけは心得ているのが「建国の父」毛沢東、必ず「革命の父」孫文と組み合わせることで、何れかを否定すれば両方を否定しなければならない構図を作っていますが、小誌は別に中国的歴史認識に囚われる必要はありませんので、権力の受け皿を作ることの必要性を理解出来なかった孫文を一顧だにせず、殺傷能力はあっても統治能力が皆無だった毛沢東に最低の評価を与えることに躊躇することはありません。

(続く)
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by 4kokintou | 2014-07-21 17:58
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